『全面改訂版 ストレスフリーの整理術』についてのメモ
何をする場合でも、これが今やるべきことだという確信をもち、ゆとりをもってこなしていければ最高だろう。
もちろんそうだが、万事それが可能というわけではない。特に何かを創造するときは、そのような確信がどうしても持ち得ないことがある。
GTDは、現代社会に何より求められているものの一つである。企業や家庭だけでなく、学校でも導入するべきだ。現状では、子どもたちは情報を処理する方法も、求められている結果やそれに必要な行動を考えることも大切さも教えられていない。
たしかにそうだが、それがGTDでなければならない必然性までは見えてこない。もしこの世界において、「求められている結果やそれに必要な行動を考えること」がGTDにしかなしえないならばもちろんGTDが全国的に導入されてしかるべきだが、GTDを行っていない人もごく普通にそうしたことを行っているわけで、GTDでなければならない根拠としては薄い。
GTDは、今や成功するビジネスパーソンにとって必要不可欠である。いくらなんでもこんなに仕事を抱えきれないだろう、といった状況でも正気を保つために必要な技術であり、これがあることでもっとも重要なことにもっとも適した方法で関わっていくことができるようになる。
過酷な労働環境にい続けると、人間は判断力が劇的に落ちてくるのでGTDのサイクルは回せないようになるだろう。そのような環境に入らないために機能するにしても、嵌まり込んでしまったらGTDではどうしようもない上に、GTDすればどうにかなるという思い込みは、たとえば心療内科から足を遠ざけてしまう一因にもなりかねない(僕がそうだった)。ある程度、恵まれた環境にいる人には普遍的に言えることだが、ブラック企業に勤めている人にこういうマインドセットを促すのは非常に危険。現代であれば、なおさらそうだろう。
私が提唱するGTDの柱は三つある。まず一つ目は、やるべきことや気になることの"すべて"を把握することだ。
重要なことのように思えるが、本当に"すべて"が必要なのか、そもそも"すべて"とはどこからどこまでを指すのかは自明ではない。
柱の二つ目は、人生において常に降りかかってくるあらゆる"インプット"にその場で対処できるようにすることだ。
保留を認めない、とい思想を感じる。常に白黒をつける感覚。
それらが発生したときに適切な判断を下し、"次にとるべき行動"を具体的かつ自信をもって導けるようにならなくてはならない。
その「適切さ」はどのように判断すればいいのだろうか。それが適切であるかをどう担保すればいいのだろうか。そして、本を書くという仕事をしているときに、「次にとるべき行動」を具体的にも自信を持っても導けないことが多々ある。そのような姿勢はGTDでは「よくないこと」だと言う風に読める。そのような規範性は本当に正しいのだろうか。
柱の三つ目は、そのようにして導かれたさまざまな判断のすべてを、人生における異なる視点レベルから評価しつつ、いついかなるときでも正しい決断を下せるようになることだ。
「すべて」「いついかなる」「正しい」という言葉が極めて強い。しかし、そんなことは本当に可能なのだろうか。可能だとして、それを行うことは「正しい」ことなのだろうか。
しかし、今はどうだろう。あなたが抱えているプロジェクトの多くには、はっきりとした「終わり」がない。
また、仕事の「終わり」が曖昧になり、達成までのプロセスが複雑になったために、多くの人がよりたくさんの仕事を抱えるようになってしまった。
この問題の解決に、なぜGTDが役立つのかの論理的なつながりが見えてこない。
現代の仕事環境において、決定的に欠けているものがある。それは、現場レベルできちんと機能する、仕事を成し遂げるための理論と、それを実践するための手法やツールだ。これらが一つの「システム」として機能していなくてはならない。長期的な目標の達成をサポートしつつ、日々のこまごまとした仕事を片づけるためのシステムである。仕事の優先度をあらゆるレベルで管理できて、日々降りかかってくる「やるべきこと」にも対処できなくてはいけない。システムを維持すること以上に時間と労力を節約できて、しかも仕事がラクにならなくては意味がない。
これらとうまく付き合っていくには、まずあなたが意識している、していないにかかわらず、"すべて"の「やるべきこと」を把握し、1ヶ所に取り込んでいく必要がある。
神経症の人がやったら、症状が悪化することは容易に推測できる。
あなたに起こったのは、「望んでいる結果がはっきりして、次にとるべき行動がわかった」ことだけである。
答えは「システマチックな思考」だ。
システマチックとは何を意味するのか。
先ほど行った作業は、知識労働者社会における思考プロセスである。
本当にそうだろうか。
ピーター・ドラッカーは、知識労働について次のように述べている。
「知識労働においては(中略)作業は与えられるものではなくて、自ら定義するものだ。知識労働で生産性を高めるカギは、この仕事で求められている結果は何かと考え、それを明確にすることである。それにはリスクを伴う決断を下さなければならないが、ほとんどの場合、正しい答えなどありはしない。選択肢があるだけである。
ドラッカーは「正しい答え」はないと言っている。では、「正しい決断」はあるのか。正しい答えはないのに、正しい決断があるとすれば、その正しさとは何を意味するのだろうか。
また、「自ら定義する」とあるが、GTDにおいて自ら定義できるものの領域が極めて小さいことが気になる。
「気になること」に意識を向け、それが自分にとってどのような意味を持つのかを見極め、それに対してどう行動すべきかを判断する。
たぶん、原則として機能するのはこの部分だけだろう。
私がこれまでみてきたTo Doリストのほとんどは、やるべきことを単に羅列しただけで、実際に必要な作業を書いたものにはなっていなかった。それは、数々の「気になること」の部分的な覚え書きでしかなく、望んでいる結果や次の具体的な行動へと変換されていなかったのである。本来であれば、リストを見て行動すべきことがひと目でわかるようにしておくべきだ。
これはまったくもって、その通りだろう。
このようなTo Doリストを見ても、安心するどころかストレスになるばかりだ。なんらかの覚え書きとして役に立たないこともないが、これを見ても「あぁ、そうだった! 何とかしなくては……」という焦りが生まれるだけだろう。
具体的な行動として書き表せば、焦りは絶対に生まれないのだろうか。その根拠はどこにあるのか。
「気になること」を思いついたまま書き出すだけでは十分ではない。それらが日々の作業を通して効率的に達成されていくには、その意味を明確にしておく必要がある。
これは、上の「具体的な行動へ変換されている」とどのように結びつくのだろうか。
現代の仕事においては、分刻みで考え、評価し、判断し、実行することが求められている──それが1通のメールや、朝の戦略会議のメモであってもだ。それが知識労働社会における仕事の性質であり、それがうまくできなければあなたは職を失ってしまう。
本当にそうだろうか。そもそも分刻みの反応を無くすようにシフトしてはいけないのだろうか。ドラッカーはむしろ、十分に考える時間を取ることを説いていた。なぜ慌ただしい社会のほうに、自分の仕事の仕方を合わせなければいけないのか。
そうした見せかけの整理だけでは、本当は何をどれだけ整理しなければならないかに気づくことができない。彼らがやるべきなのは、「気になること」を"すべて"集めて、それらについて意識的に考えることなのだ。
本当にそうなのだろうか。その論拠はなんだろうか。不完全なリストを並び替えることで真なる整理は達成できない、という指摘が正しいにして、「気になること」を"すべて"集めて、それらについて意識的に考えることが「やるべき」である、ということの論証があまりにも少ない。
私は何かの意思決定をするとき、「事前に考慮された」選択肢から直観を信じて選ぶようにしている。その場で「どんな選択肢があるかな……」と考えたりはしない。その場で考えつく選択肢だけでは正しい優先順位で行動しているとは言えないからだ。すべての選択肢を事前に考慮しておき、信頼できるシステムにあらかじめ整理しておくことが重要である。
ここに創造的な仕事との相性の悪さがある。あと、この「意思決定」に何が含まれていて、何が含まれていないのかも明示されていない。
さまざまな情報やアイデアを集めたインボックスは定期的に処理し、空にしておかなくてはならない。そうしないとインボックスはすぐにあふれてしまい、その機能を果たさなくなる。
それは「結果をイメージできないと、どうすればそこへ到達できるのかが見えてこない」ということだ。
ブレインストーミングを行ってたくさんのアイデアを出し、頭の中をすっかり空にできたら、自然とアイデアが整理されていることに気がつくだろう。
自信がないとき
なんだかもやもやした感じが残るときは、ナチュラルプランニングの手順をさかのぼっていくといい。方向性がはっきりしないまま「次にとるべき行動」ばかりに追い立てられているという人は多いが、そうしたときはそもそものアイデアに立ち返って「思考の整理」をしてみるといい。プランニングそのものが不明瞭な場合は「ブレインストーミング」で十分なアイデアをだし、もっと信頼できるプランにすることが突破口になるかもしれない。ブレインストーミングをしても思考がすっきりしないなら、「結果のイメージ」に戻るべきだろう。結果のイメージがはっきりしないなら、そもそもの「目的」を考えてみるとうまくいく。